同性愛者と障害者2018年07月29日

報道によると、自民党の杉田水脈衆院議員が(同性カップル)「は子供を作らない、つまり『生産性』がない。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」と月刊誌に寄稿したそうだ。

同じ論理で言えば、回復の見込みのない患者や治療法の確立されていない病気の患者に治療を試みることにも税金を投入すべきではないということになるのではないか。彼らにもまた「生産性」はないのだから。しかし、実際には、そうした病気の研究に公費が使われているし、杉田氏がどういう意見かは知らないが、それを批判する人は極めて少数だろう。同性カップルについても、IPSによる卵子や精子の作成が可能となっている現在、「そこに税金を投入」して「治療する」こともありうるのではないか。

もう一歩踏み込んで考えると、カップルは子供を作ることだけを目的としていると主張しているように見えるが、果たしてそうなのだろうか。婚姻とは「男女が性の結合を基礎として、夫婦共同の生活を継続的に営むこと」(日本国語大辞典)だそうだが、人間にとって「性の結合」はすべからく子供を作るための行為なのだろうか。ならば、杉田氏がどういう意見かは知らないが、避妊行為は法的に禁ずるべきだという議論もありうるだろう。

さらに、もう一歩踏み込んで考えると、「生産性」という自分の基準で他人の在り方を判断し、税金の投入の是非を論じるのは如何なものか。人類の歴史を見ても、生命の歴史を見ても、多様性こそが連続性の源泉であることは明らかである。環境問題でも、有害な種を排除したために新たな被害を発生させてしまった例をよく聞く。この社会も様々な人の様々な行為によって支えられている。キリスト教の聖書だったかに、「石ころだって役に立つ」という文言があるそうだが、現代においては、個々人の多様性を肯定し支え促進することこそが政治の役割ではあるまいか。だからこそ、階段を狭くしてエスカレーターを設置し、さらにエレベータを用意するのだろう。だからこそ、敗戦を境に「義務教育」が、軍国日本に役立つ国民になるための「教育を受ける国民の義務」から「人格の完成を目指」(教育基本法)して「教育機会を提供する社会の義務」に変わったのだろう。だからこそ、「障害者」の意味が、「障害を持つ者」から、「社会に障害を感じる者」に変わろうとしているのだろう。

津久井やまゆり園で2016年に殺傷事件を起こした犯人の(重複障害者は)「不幸を作ることしかできない」という主張は、自分の基準で他人の人生を評価するという点で、杉田氏の主張と重なるように思える。

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