LGBTと従軍慰安婦2018年11月06日

朝日新聞の記事(2018年11月5日23時04分付け「LGBT『知識なき水かけ論』当事者の衆院議員は訴える」)に、次のような件があった。

「寛容であれ」。これは誰が誰に対して寛容を求めるかによって、文脈が変わる。差別を受けた側に寛容を求めることは、マイノリティーとして声をあげるのをためらう状況を維持することにならないか。こんなことで声をあげるのは間違っていると、沈黙や行動の抑制を求めることにならないだろうか。傷つき声をあげている人を対話的でないと非難するのは、筋が違う。寛容や対話は、差別や差別の扇動を許すことではない。

この構図、従軍慰安婦問題に似てはいないか。「寛容であれ」を「未来志向であれ」に置き換えて見たらどうだろう。加害者側が言う「未来志向」は「いつまでもごちゃごちゃ言うな」という恫喝に等しく、被害者側が言う「未来志向」は余りにも痛々しい。

日本軍が従軍慰安婦に関わったという証拠はないといわれているようだが、敗戦後直ぐに軍や政府の多くの書類が焼かれたのだし、昨今の公文書改竄や隠蔽を見れば、証拠がないから事実はないというのは余りにも単純過ぎる。だいたい、何万、何十万という男子が集まるのだ。軍が直接指示を出そうが出すまいが、利に敏い連中が従軍慰安婦をお膳立てするのは目に見えているし、軍にたむろする連中が(これも昨今流行の)「忖度」をして用意するだろう。軍もそれは承知していただろうし、むしろ期待していたに違いない。でなければ、軍の規律を維持することはできまい。

大型トラックが通過した。突風に煽られて転倒し怪我をした。トラックが意図的に風を起こした証拠はない。しかし、トラックが走れば風が起こるのは当然である。さて、一体誰が悪いのか。