シリアと飛行機と原発2018年11月18日

シリアで拘束されていた安田純平氏が解放された。すると、またぞろ、勝手に行ったのだから救援の必要はないといった自己責任論が噴出しているのだそうだ。

たとえば、飛行機。あんなに重たいものが、何故、空を飛ぶのだろうか。重たいものが落ちることは誰でも知っている。その落ちるはずの機体を速度で稼いだ浮力によって浮かべているのだ。だから、飛行機は浮かぶのではなく、飛ぶ。したがって、飛行機に事故は付き物である。確率は低いだろうが、事故は起きる。法律によっていかに安全確保が義務づけられていようとも、事故は起きるのである。つまり、飛行機に乗る人はそのリスクを自己責任で受け入れて搭乗する。だから、航空会社や搭乗者は保険に加入するのである。しかし、親の介護のために搭乗していた人も、ビジネスで搭乗していた人も、物見遊山で搭乗していた人も、墜落事故の犠牲者が自己責任として非難されることはない。

たとえば、原子力発電所。原子核反応の基礎理論は理解されていても、それを制御する技術は完全ではない。炉内の対流や気泡の影響、高圧高温がもたらす腐食、小さな異物による配管の詰まりや弁の機能不全。コンクリートや金属が放射線によってどのように劣化していくのか。完全には分かっておらず、完璧な制御は難しい。したがって、原子力発電所に事故は付き物である。実際、原子力発電所は、事故の確率が極めて低いという条件で認可される。確率は低いだろうが、事故は起きるのである。つまり、立地自治体は振興策と引き換えに、そのリスクを受け入れたのである。「原子力は安全」という話に乗せられたのだろうが、何千人か何万人かの人口があり、行政組織があり、国内外の専門家の意見を聞く機会だって作れたはずの自治体が受け入れると自己責任で判断したのである。しかし、実際に事故が起きても、被害者が自己責任として非難されることは少ない。

ジャーナルというのは日々の記録という意味である。一人だけの「社会」であれば、日記をつけなくても構わない。また、独裁国家であれば、人々は指示に従って動けばいいのだから、自分の知らぬところで何が起ころうが敢えて知る必要はない。しかし、多くの人が集まって暮らす民主社会に於いては、すべての人の総意として社会を動かしていく。したがって、国内外でどのようなことが起きているのかを知らなければならない。日々の記録をつけるジャーナリズムはそのための仕組みであり、民主社会を維持するための不可欠な仕組みなのである。政府が渡航自粛を勧告しようが、ジャーナリズムの使命として紛争地域に入りその実態を記録し世界に知らしめることを自己の責任において決断した。そこに、非難すべき点はない。記者から欧州の移民問題を問われ労働問題として答えて失笑を買った安倍日本国首相と、敢えて紛争地に入った日本人。どちらが、人権意識・国際意識のある国として日本の立場を強化しただろうか。