がい、害、碍2024年11月19日

つらつら考えるに、この地上の生命体というのは、その発生から、成長、成熟、衰弱、死、そして分解に至るまで、連綿と続く化学反応の連鎖である。化学反応は、さまざまな化学的状態にある原子や分子が会合することによって生起し進行し、どの要素とどの要素が会合するかは確率的である。したがって、一つの受精卵がどのような発生過程を経るかは、本質的に確率的だということになる。

化学反応は、爆発現象のように加速度的に進行する場合もあるが、物理現象同様、概して安定的であるように思われる。そうでなければ、こんなことをつらつら考えている暇はそもそもないはずである。ならば、受精卵の発生過程は確率的ではあっても、概ね同じような過程を辿るということになるだろう。実際、そうでなければ生物が世代を重ねることは不可能だっただろう。つまり、生命体が盛衰する過程は確率的ではあっても、ある程度の安定性はあり、そのあわいに種の保存と進化があるのだと思われる。

ここまで考えてくると、生命体が持つさまざまな「障碍」は、あってはならないことではなく、その生命体の在り方なのだと思われてくる。事故や薬害で生じた欠失や不全は確かに「障碍」と言えようが、持って生まれた生命の形は、その生命体のものであり、「できそこない」ではなく、それがその生命体にとっての「正しい姿」なのだと思われる。

しかし、比較的な安定性があることによって、必然的に、多数派と少数派が生ずる。そして、社会制度は多数派に利があるように設計されるのが常である。そこに「障碍者」が生まれる。そのような社会は、少数派には「障碍だらけの社会」と映るだろう。たとえば、言葉が通じず慣習も異なる町を尋ねた旅行者を想像してみればよい。

外国からの旅行者を呼び込むために、多国語の案内標識を設置することがある。そのような配慮を少数派にも向けるべきだろう。

障碍者と書くか、障害者と書くか、障がい者と書くかは、どうでもよいことのように思う。それを「障碍」、すなわち「できそこない」と捉えるのではなく、「正しい姿」と受け止めることが根本だと思われる。その上で、その可能性を広げるような技術や制度を開発していくべきであろう。鳥ならぬ人類が空を飛べるようになったように、暗闇では見えなかった人類が暗視できるようになったように、短命であった人類が長寿になったように。